春が来れば、桜が咲いたら退院でした。
あの年ほど、桜の木の変化を感じた年はありません。
春が近づくにつれて、桜の木の幹がピンク色になる。
桜が咲けば、退院だ。
退院してからの生活のことは、何も考えてはいませんでした。
退院して日常生活に戻れば、元の生活に戻れる。
そう信じていたのです。
退院すれば元の生活に戻れると思っていました。
公式に発病した日は、幼稚園の3年保育の入園願書を提出した日でした。
その日、微熱が出ていたムスコを抱っこして幼稚園の願書の提出をしました。
転院して病名が確定した時に、幼稚園には連絡を入れると、
手続きはそのままの状態にしておきます。
先生たちは、元気に登園してくれる日を待っていますと伝えてください。
そう言っていただいたのです。
退院したら、幼稚園に通える。
春の入園に備えて、園バックやお弁当箱を購入しました。
いいでしょう?
用意した園バックやお弁当箱を、うれしそうに看護師さんに見せるムスコ。
例えすぐには使えなくても、こうやって用意をしてあげることは大切なことよ。
そう言われて、退院しても幼稚園には通えないことを知りました。
生活面での配慮は、新生児と同じ。
退院後の日常生活についての話をした時、
新生児と同じようにしてね。
???
- 洗濯物は、個別に洗濯する。
- 生野菜や生魚を食べさせない。
- ほぼ新生児から子育てをやり直すと思っていて。
病院から注意されたことは、想像外のことでした。
体調の変化をキャッチできるのは、母親だけの生活。
入院中に看護師さんに言われた言葉があります。
入院中は、こうして私たちがサポートできる。先生にもすぐに相談できる。
でも、退院したらお母さん一人で判断しないといけなくなる。
しかも、お家が遠いから特に大変だと思う。
入院中にその言葉を聞いても、ピンとはこなかったのです。
実際の生活がはじまると、その言葉が重くのしかかってきました。
入院するまでとは明らかに、体調管理の方法が違うのです。
幸いなことに地元の小児科の先生が、主治医の先生と同じ大学の同級生でした。
開業されるまでに、ムスコの入院していた病院での勤務経験もあったのです。
地元の小児科の先生に、日常の受診を診ていただけることになりました。
- 1ヶ月に1回の定期検診は、80キロ離れた入院した病院。
- 体調不良の時は、近所の小児科。
二人の先生の連携で、生活していくことになりました。
薬の副作用で、嘔吐のクセがついていた。
薬の副作用で、嘔吐を繰り返していました。
体調が良い時でも、刺激を感じると嘔吐をします。
いわゆる「吐き癖」がついたのです。
匂いに敏感になって、嘔吐をする。
ムスコの場合の「刺激」は、匂いでした。
- トイレの香り。
- 食品の香り。
この二つに、一番反応しました。
普段の生活なら気にならないような、匂いでも嘔吐する。
刺激を感じてから嘔吐するまでの時間も、短いのです。
一瞬で嘔吐をするので、対処が間に合わないこともあります。
床の吐瀉物を片付けながら、だんだんと落ち込む自分がいました。
体調が悪くて嘔吐をするのではない。
元気に遊んでいるのに、突然に嘔吐するのです。
吐いている姿を見ていると、病気を突きつけられた気持ちになりイライラした。
元の生活に戻りたいのに、戻れない。
病気になったムスコを、受入れられない。
私は、元気に生まれてきた子どもだったから可愛がることができたのか?
母親としての足元が、揺らいでいました。
どこからもらってくるのか、聞いたことのない病気を拾ってくる。
退院から1ヶ月が過ぎた頃から、感染症にかかるようになりました。
どこにも出かけないのに、退院してからは聞いたことのない病名の病気を拾ってくるのです。
看護師さんの言っていた、「母親一人で判断しなければならない。」状況がきました。
健康管理と看病で、ヘトヘトになっていった。
感染症対策で、幼稚園には通えない。
退院前の春から、幼稚園に籍は置いていました。
クラス名簿にも名前が記載されています。
でも、退院してもすぐには幼稚園には通えません。
退院は、4月のGW中でした。
小児科の先生からは、2学期の運動会が終わった頃から登園しようと言われていました。
家で二人きりの生活がはじまった。
入院前の生活も、ほぼ二人きりでした。
休日も夫は仕事で出かけていたので、ほぼ毎日午前中は公園に出かけていました。
退院後、落ち着いた頃に公園に出かけましたが、そこは元いた世界ではなかったのです。
馴染みのお友達は、みんな幼稚園に通っていました。
今から思えば、気にしていたのは私だけです。
毎日を穏やかに過ごせていたら、子どもは満足だったと思います。
幼稚園に通えない=病気をしたから。という思考のパターンに囚われていました。
家での遊び方も変化した。
1歳の時に出会った、ヨーロッパの木のおもちゃや積み木のおかげで、部屋遊びの環境は整っていました。
入院前も積み木で1時間くらいは、一人遊びをしていました。
ところが退院後は、部屋遊びの様子が変わったのです。
テープ出して。
紙とテープを使って遊ぶようになったのです。
私にとっては、紙とテープの遊びは「入院中の遊び」でした。
家に帰ったのだから、今まで遊べなかった積み木を使ってダイナミックに遊べば良いのに・・・・
ムスコはダイナミックには遊んでいました。
積み木をテープで止めて、電動ドリルに見立てて積み木の外箱を重ねてドアを作ったのです。
冷蔵庫を購入すると、電気屋さんが持ち帰ろうとした段ボールを欲しがり大型の飛行機を作っていました。
ハサミで段ボールをくり抜いて操縦席を作り、テープを使ってカットした段ボールで翼を作るのです。
復帰した習い事で、ママ友に相談しても「そんなダイナミックな遊びをするなんて、羨ましい。」と言われるばかり。
ママ友からは、何が不満なのか分からないと言われる。
自分でもどうしていいのかわからない。
とにかくテープを使って遊ぶことをやめて欲しい。
ここは病院ではない。
テープ以外の道具を使って、遊べるのになぜこの子は、テープを使い続けるのか。
その一心でした。
条件つきの幼稚園への登園。
モヤモヤした思いを抱えながら、日々を過ごしていました。
7月の定期受診の時に、先生に訴えます。
家で子どもと二人きりで過ごすのは、限界。
幼稚園に通ってみましょう。
だいぶん元気になったし、感染症を拾ってきてもすぐに夏休みだから、良いタイミングでしょう。
夏休みの10日前から幼稚園に通えるようになったのです。
ただ、条件がありました。
- 秋の運動会が終わるまでは、午前中保育。
- クラスで一人でも法定伝染病が出たら、自宅待機。
- インフルエンザは、園で発症者が出たら自宅待機。
- 最後の患者が登園して、2週間後に次の患者が出なかったら、登園可能。
これが先生が提示した、条件でした。
年少組の1年間で、フルで登園できたのは実質2ヶ月だけだった。
10月の運動会までは、午前中保育。
運動会が終わると、クラスで水疱瘡の患者がでました。
しかも園からの連絡は、大型台風の直撃で停電していたので、家の電話が繋がらなかったのです。
その状況で、幼稚園に登園していたの?
今から考えたら不思議よね。
台風一過で、信号が止まっていても学校も幼稚園も普通に登校していたのよ。
とうちゃんの携帯に園から連絡が来て、昼休憩に二人で歩いて帰宅しました。
(小さな街なので、とうちゃんの職場と幼稚園は、徒歩10分圏内。マンションは幼稚園から徒歩20分圏内。)
かあちゃんは、停電でマンションの水道が断水していたので、せっせと水汲み中でした。
小児科の先生に電話で連絡をすると、すぐに連れてくるように言われました。
台風の片付けもほっぽり出して、新幹線に乗って病院を受診。
念のために予防接種と薬をもらって帰宅。
万が一発症したら電話をください。
すぐに、持って帰った薬を服用させてから地元の病院を受診すること。
重症化を避けるために、水疱瘡の予防接種をしてさらに水疱瘡用の抗ウイルス薬をもらいました。
1週間後に、しっかり水疱瘡を発症しました。
先生方の万全のバックアップで、重症化することなく治療ができました。
退院後1年間は、感染症にかからないための戦いでした。
1月から3月の間は、園内で誰かがインフルエンザにかかっています。
登園できたのは、1月の最初の数日と3月の最後の1週間だけ。
なぜ家にいるの?と聞かれることに追い込まれていく。
インフルエンザの流行期は、どうしても家にいる期間が長くなります。
幼稚園に通っているのに、家にいる。
いつも私と昼間に出かけている。
同じマンションの人や、馴染みのお店の人に「どうしたの?」と聞かれる。
事情を説明するのが嫌だ。家から出たくない。
習い事は通っていいと言われていましたが、当時の習い事は入院前から通っていた月3回のわくわく創造アトリエだけでした。
繰り返す嘔吐。
取り上げても使うガムテープ。
退院後から、自分の中で納得できないままの日常が続いていました。
「一番かわいそうなのは、病気になったムスコ。」発言で、さらに追い討ち。
自分の思いを誰かに聞いてもらいたくて、ばあちゃんに訴えました。
一番かわいそうなのは、病気になったMちゃん。それなのに、お母さんがそんな気持ちでいるなんて、かわいそう。
私が悪者になってしまった。
ただ話を聞いて欲しかったのです。
共感して欲しかったのです。
どこにも出せない思いは、自分の中で出口を失って自分自身を傷つけます。
とうちゃんに訴えても、
なんとかしてやりたいけど、どうすればいいのか。
どうすることもできない。
そのお子さんは、テープの便利さに気がついたのですね。
助けが欲しくても、誰も助けてはくれない。
そんな時に、習い事で講演会が開かれました。
講師は、WAKUーBLOCKをつくられた和久洋三先生。
実は、その積み木の教室では1ヶ月に1回(3クラスあったので、実際は3ヶ月に1回)先生の直接指導を受けていました。
年度の最後には、保護者を集めて講演をされるのです。
その講演の最後の質疑応答の時間に、質問をしました。
テープを使わず遊んで欲しいのに、テープを使う。どうしたら良いでしょうか?
先生の答えは、
なぜ、テープを使うことがダメなのですか?
私が使いたい時に、所定の場所にないと困るのです。
子どもが使うテープを、別に用意すればいいのでは?
・・・
口籠る私。
先生は、子どもの遊びについて話をされるます。
正直、何を話されたのかは覚えていない上の空でした。
説明の最後に、私の方を見ながら先生は言われました。
そのお子さんは、テープの便利さを知ったのでしょうね。
テープが悪いのではない。テープを使う病院の生活を思い出すから、使って欲しくなかったのだ。
帰宅してからも、先生の最後の言葉が頭の中をぐるぐる回ります。
知ってしまったものは、後戻りはできない。
私が絵本や積み木を与える時に、いつも心の中で繰り返していた言葉です。
テープの便利さを知ってしまったのだから、使うのは当たり前。
それは、病気や入院していたことは関係ないのです。
テープというアイテムに、ただ出会っただけ。
私がムスコがテープを使う姿をみて、モヤモヤするのは私の問題なのです。
そこに気がついた時、私は泣いていました。
ごめんね。明日、新しいテープを買ってこようね。
今日はこれを使って遊ぼう。
そう伝えると、ムスコは早速コピー用紙とガムテープを使って遊び始めます。
これは、ノキア(人形の名前)のベットなの。
と言いつつ、人形を作ったベットに寝かせます。
これを上につけて。
とかあちゃんにお願いします。
もっと上。
天井にテープをつけて、そのまま長くテープを垂らす。
そう、入院中のやっこーずのテープのように。
2本のテープを、天井からソファまでたらした先に、先ほど作った人形のベットをつける。
そして、ベットごと人形を抱いて満足していました。
ただ、テープの便利さを知っただけなのだ。
吐き癖は、成長するのを待つしかない。
テープの問題は、和久先生の言葉で私の中では解決しました。
「吐き癖」はどうなったのか?
これはもう、成長するのを待つしかありません。
成長すれは良くなる。
そう自分に言い聞かせていました。
実際にムスコもだんだん、自分でトイレに駆け込めるようになりました。
退院後、3年くらいは常にビニール袋を持ち歩いていました。
頻度は年々少なくなりましたが、5年目くらいまではよく吐いていました。
例えば、デパ地下で漬物店の前を通ると吐きそうになる。
とうちゃんが、小脇に抱えてトイレに駆け込んで事なきを得たこともあります。
私も嘔吐するタイミングが分かるようになり、咳き込んだだけでビニール袋を差し出せるようになっていました。
親族の集まりの時に、咳き込んだムスコにグラスを差し出し吐瀉物を受け止めた時には周囲が静まりかえりました。
あまりに自然に対処していたからです。
それまで道のりを想像して、何も言えないと囁いた親族もいました。
それでも外出中に間に合わなくて、恥ずかしい経験もしました。
2年目くらいからは、大人になるまでには自分でコントロールできるようになると自分を納得させて暮らしていた。
今でも、匂いは苦手だけど、コントロールはできるようになったよ。
コントロールはできるけど、どうしようもない時はあるけどね・・・